昭和41年08月16日 朝の御理解



 今日学生会の方達が、二泊三日の予定でキャンプをするようになっております。昨夜からそのことは、何回もお届けがございました。天候もこんなちょっと不順でございますし、新聞ラジオでは台風がくるかも分からないから、物見遊山的キャンプ的なことやらは、見合わせた方がいいと、言った様な報道がされて居ります。でもまぁ神様にお願いして前々からお取次頂いてあることでございますから、やらせて頂くことをお願いしておる訳でございますけれども。
 神様にお願いしてあるからという、安易な事だけではいけないと思いますね。今朝から先発の方達は行っております。後の方達が又御祈念の後に参りますけれども、その事を今朝からお願いさせて頂いておりましたら、今はもう作ってもいないようですね、砂糖キビですね、砂糖キビを頂いた後大変散らかりますもんね。あれは、あれを食べ散らかしておるところを頂きましてからね、ああ神様がこういう心掛けではいけないぞと、いうことを教えて下さったんだと。
 昨夜御祈念中にその事を、お届けさせて頂きました時も、先発の方達に対して、何事にも信心になれよという、お書き下げと御神米二体下がっております。ですから例えば砂糖キビの食べ殻と言った様な事を頂いたことは、そういう心掛けではいけないぞと。だからそこんところに焦点を置いて、何事にも信心にならせて頂こうとするそういう願い、そういう精進がキャンプをキャンプ的精神が、本当の信心実習にもなりおかげ頂いて、有難かったと、良かったという様なおかげ頂けるのであって。
 その為の心掛けのことだと、私思うたんですけれどね。それには先日私、二度目の梅林寺さんにお参りさせて頂き、見学させて頂いたんですけれども、その時に入り口の掲示板ですかね、こんな事が書いてあったんです。「来るときよりも帰るときを大事に」と書いてあった。来る時にはお土産のいっちょでも持って来るけれども、帰る時には粗末な帰り方をすると、言う様なことではいけないと。帰る時の方をむしろ大事にしていけと、そういう意味がその事の中に、含まれておると私は思うたですね。
 砂糖の木といえば甘いもの、ですから事を甘く見てはいけないと、甘い考えではいけないと同時にです、いうならばです、その後の食べ殻的なもの、キャンプを何処でするか、どこか佐賀の滝場があるところだそうですがね。そんなに言うてました、ね。確かに。参りますんですけれども、私ヤマナミハイウエーに参ります時にここが〇〇キャンプ場だと云う所で食事でもさせて貰おう、お茶でも頂こうというて来たけれど、そこは成程理想的なキャンプ場ですけれども。
 もうゴザを敷いてお弁当でも開こうかという所がなかった。あまりにも散らかっとったから、より尻きれかもんのような自分達がその時楽しい思いをすればそれで良いと言う様な、あれで山に登る人達のなんとかかんとかいうて精神のごというけれど、これじゃ本当につまらないなあと言う様に私感じたんですけれども、そういう意味の事も含まれていると思うんです。来るときよりもむしろ帰る時を大事に。何事も信心にならせて頂いてからのそういう心掛けの上に、神様の特別な働きが頂けると思う。
 これは学生会の事に対することだけではありません。私共日常生活においてもです、物事を軽くみてはなりません。人を軽う見るな、軽う見たらおかげなしと仰るが、これは物を軽う見るな、物を軽う見たらおかげなし。又は物事を軽う見な、軽う見たらおかげはなしという風にも教え頂かなならんと思うのです。勿論慎重をきすということは信心になれるということだと思うんですけれども、私共が事を簡単に思う、甘くみる。これは私はお取次ぎさせて頂く立場としてです。
 いつもそれは心に掛けさせて頂くことでございますけれど、先生又ちょいと久留米にやらせて頂きますというようなふうでいう人がある。それは久留米までのことですから簡単の事のように思って居るんでしょうけれど、私としてはどっこい、そんな訳にはいかん。お取次させて頂くんでございますから、これから東京にやらせて頂きますからどうぞ万事道中宜しくお願い致します。
 御神米も頂いて行きたいと、これが東京へ例えば遠方へでも行く時にはそんな気持ちなんですけれども、ちょいとそのそこまで行く時には、ちょいと車で行きよりますけんでという、その程度で皆さんが行くのが普通なんです。 けれど、東京行きでも、久留米行きでも同じです。ですからお取次願う人が、そういう風に軽う思うておるから、私はまあ行ってらっしゃいという程度ですけれども、神様に向かってはです、とりわけ慎重にお届けさせて頂きます。
 何故っていうてから、御取次を頂いて行ったのに、例え途中で怪我したなんて言う様なことがあっては大変ですからね。ですから私はそういう時にそういう時程にお取次願うものが慎重である時には私が、いうならばざっとという訳にはいかん。けれどもざっとでもおかげ頂くもんです。本人が真剣なんですから。けども本人が真剣でない時には、御取次にはむしろいうなら骨が折れるということ。又その場合には本物のおかげじゃないという風に私は思っております。あぁそう行っておいでじゃ行ってきます。
 これでは御取次にはならない。信心にならない。それで例えば、ちょいと車で行って参りますと、言う様な時程に、私は神様にその事をすぐ行き帰りの事ですから、万事向こうに参りましたら、御都合御繰合わせ頂きますようにという願いを、お取次ぎさせて頂きますけれど、これなんかはいわば甘くみない行き方なんです。私共がですね事をです、軽うみたり甘くみたりすることは、これはいけませんですね。それはいうならば神様を甘くみたり軽くみたりする事と同じ事だと言う位の気持ちでです。
 私あの信心させて頂く者はおかげ頂かなければならん。何事にも信心になれよとはそんな事だとこう思うんです。どうぞ砂糖キビを食べるのはいいとしましてね、食べ殻を一杯散らかす様な事では信心ではない。行きがけも慎重に緊張して行くなら帰りもやっぱりヤレヤレ済んだと言う様な事が難儀の元になるのです。ですから初めから最後まで信心の精神というか、何事にも信心にならせて頂くおかげを頂かせて貰わなならん。私共日常生活の上に於いても朝も夜も同じ気持ち。
 もう今日もヤレヤレ済んだからという、ヤレヤレというのが私はいけません。気を抜いてはならんということではありませんけれども、その時その時に信心の心というものを、いつも神様に向けておかなければならない。心を神様に向けておく事だとこう思うんですね。どうぞ今日一日、私共は事を甘くみておる様なことはないだろうかと、軽くみておる様なことはないだろうか。そういう心に焦点を置いて、今日のおかげにしていかなければならんと思うですね。
   どうぞ。